美学があうかどうか

自分の仕事選びの基準として、何をするかよりも誰とするかを重視している。明確にこれを考えて行動してきたわけではないが、振り返ってみるとそうだった。逆に、最初はこの人と一緒に働きたいと思っていても、数年経つとそうでもなくなることもある。それはなぜなのか。

「誰とするか」の「誰」の部分をもう少し解像度をあげる必要がある。最近ぼんやりと考えていて、美学があうかどうかが自分にとって大事なんじゃないか、もっというと今後のデジタルなプロダクト開発にとっても大事になるんじゃないか、という仮説が思い浮かんだのでメモしてみる。

美学?

ここでいう美学は、あくまでデジタルなプロダクト開発の文脈での話。「利便性」よりももっと根源的な「なんとなく使っててテンションあがる」「なんとなく良いよね」って感覚を指して、美学という言葉を使ってみている。適切かどうかは自信が無いが、前にIntercomとのやり取りで感じたものに近いので、そこで出てきた 美学 aesthetic という言葉にしてみた。

具体例としてDropbox Paperをあげる。Dropbox Paperは簡単に言えば、ノートアプリ。ノートを書く際には、左のスクリーンショットのように真っ白なノートだけが表示され、ノートを書くことだけに集中できる。

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Dropbox Paperのノートエディタ

そして、Markdown形式で見出しを書くと、左端に「うっすらなグレー線」が表示され、「マウスホバーをすると」目次が表示される(右図)。さらに言えば、目次は1見出し1行で構成され「一定の横幅を超えると見出しの末端を『…』で丸めている」。これにより目次が長くなっても全体像をひと目で把握できる。

このように僕はDropbox Paperのノート画面を見て、ノートを読み書きすることに集中できる、自分好みのデザインだと感じる。一方で、あえて太字にした部分は好みが分かれるところだろう。

例えば、文章の構造化を常に意識したいので、目次はマウスホバーではなく常に表示していてほしいし、末端は丸めないで欲しい、と思う人も当然いるだろう。なにを美しいと感じるか、テンションがあがるかは人それぞれなので、違いがあるのは当然のこと。

いちユーザーとしては、自分が触っててテンションあがるモノを使えばいいし、そうあって欲しいと思う。それが美学があうかどうか。

プロダクト開発における美学

難しいのは、この人それぞれ持つ美学の違いが、プロダクト開発の現場で起こったときである。往々にして美学の違いを議論で解決するのは難しいと思う。先の例で言えば、「一定の横幅を超えると見出しの末端を『…』で丸めている」ことの是非を議論で解決するのは難しい。

もちろんこの対立がおきた際には、ユーザーリサーチをして議論を補強するだとか、2パターンをリリースしてみて反応を見てみましょうだとか、大人なやり方は考えられるし、大きな企業ではそうしてるんだろう。ただスタートアップだとか、ゼロイチのプロダクト開発をしてる現場では、美学の違いに対してそのような労力をかけることが現実的だとは思えない。

じゃあどうするかと言うと、美学よりも "機能的な正論" が優先されることが多いんだと思う。「マウスホバーして目次が出るとか分かりづらい」という意見は "機能的な正論" である。機能的な正論は正しいがゆえに否定しづらく、それが積み重なるとプロダクトに本来宿っていたであろう美学は失われる。

もしくは、開発組織の権限設計が適切にできていたり、デザイナーが持つ美学に対する信頼感が厚い場合は、その人の美学が優先できたりするんだろう。Dropbox Paperは後者かもしれない。ただその場合でも、プロダクトが成長して組織が大きくなり、"機能的な正論" や "ビジネス的な正論" の声が大きくなると、とたんに美学は失われる。美学を貫くのは難しい。

美学は必要なのか

日本語だと美学には「美」という言葉がついているから、デザイナーが持つもののように思われがちだが、美学は誰しもが持っているものだと思う。ただ多くの人は自覚的ではない。デザイナーを代表として、プロダクト作りに関わる人はたまたまそれに自覚的な人が多い。そして自分が持つ美学と、多くの人がぼんやり持っている美学を、うまくすり合わせられる力が、商業プロダクトを作る上で必要なセンスなんだと思う。

個人だけでなく、プロダクト自体にとっても、美学を貫くことは今後より大事になると思っている。例えばノートアプリ。単に"書く・読む"という機能だけを捉えると、Dropbox Paperと同等のプロダクトは山ほどある。Evernote, Notion, Bear, Dayoneなどなど。

もちろんそれぞれのプロダクトは、機能面 (タグやカテゴライズなど整理機能や、他人への共有機能など)や、使う文脈 (個人向け・スタートアップ向け・大企業向け、日本向けなど)で差別化がなされている。ただこの違いは真似しやすく、作ること自体が簡単になった世の中では、差異はどんどんなくなっていく傾向にあると思う。toBであればニッチな差別化でもお金にしやすく生き残り易いが、toCであれば淘汰される。

Uberに対するLyftのように、エッジな製品を作り出せたとしても、そこにニーズがあると分かれば競合は現れとたんに陳腐化する。そんななかで差がつくのは「なんとなく使っててテンションあがるよね」という美学だと思う。

機能、文脈、そして美学、この3つの組み合わせがプロダクトを作る上でますます大事になってくると思う。NetflixUberAirbnbなどリブランディングを通して、美学を言語化したり、よりシャープに美学を表現する企業が増えてきたのは、この傾向を示しているのではないかと思ってる。

美学があうかどうか

話が大きくなってきたので自分自身の話に戻すと、「誰と仕事するか」を価値観として大事にしているが、「誰」の解像度をあげてみると、それはプロダクト開発の文脈では「美学が合う人」なんだと最近気づいた。これが合う人とは仕事がしやすく相乗効果が生みやすく、結果として良い仕事につながる気がする。

合わない人とは、美学のレイヤーに対する意思決定が必要になるたびに議論が必要だし、それは心理的にも時間的にも負荷が大きい。もちろん見て見ぬふりをする、もしくは権限をもってゴリ押しすることもできるが、例えば4 ,5人の小さなチームでそれをやることが健全だとは思わない。

また同時に、「美学が合う人」と仕事するためには、自分自身の美学に自覚的である必要がある。また、商業製品を作るためには「すり合わせる力」も大事になる。それらを磨くためにも、自分と同じ美学を持つ人と仕事したいと思っている。

美学っていうと大袈裟な話になるんだけど、ようは「なんとなくいいよね」って感覚を大事にしたい。